可愛いって罪深~~!!

どこにでもいるオタクの殴り書きテキスト

アイドルと神の関係性などについて考えました

こんにちは、カッツミ~☆彡です。

今日は難しそう(あくまで難しそうなだけ)な話をするので、本当に読まなくていいです……。

 

まず、そもそも今回これについて考察するきっかけとなったのは、アイドルと神権政治について考えたいな~と思ったからです。つまり突発的な感情に流されて書いているものなので、そこを踏まえて読んでください。

 

 

”アイドル”という存在の語源は、偶像に由来する。

偶像というのは、ある意味信仰対象として一ジャンルを築いているとも言えるわけだが……というのも、旧約聖書の一部である十戒において既に偶像崇拝は禁じられているからである。旧約聖書十戒というのは(実際にあった出来事だとするならば)3000年くらい前の話である。

そこで今後アイドルを信仰対象と仮定して話を進めるが、仮にアイドルを信仰対象=神とするならばオタクの感情には当然信仰が発生するわけである。

信仰において、言葉というのは大きな意味、力を持つ。

旧約聖書にあるバベルの塔の話であったり、新約聖書における一節「はじめに言葉があった」であったり、古くから言葉が重要なものと考えられていることは明らかだ。

 

 

そこで一つ疑問が発生する。

 

アイドルを神とした場合、「オタク=コミュニティ」であるオタク社会(ここではジャニオタの社会とします)の統治者はアイドル本人になる、とも考えられるわけだが必ずしもそうはならない。なぜか?

 

ここで神権政治について説明する。

神権政治というのは未開社会及び政治と宗教が分離していない社会に多く見られる政治形態なのだが、おおきく二種類に分けることが出来る。

一つは、統治者そのものが神とされる場合。この場合は神は人間(統治者)そのものとなる。

もう一つは、統治者が神の代理人・言葉の媒介者となる場合である。この場合神は別にいて、あくまで統治者は代理人であるという考え方になり、実在した神権政治というのはこちらが多いと考えられている。

 

今回の場合、「オタク=コミュニティ」に神であるアイドル自身は直接介入しないため(ただし、ネタバレを禁止するなどの言論統制や行動抑制についてはある程度の効力を持っていると言えるだろう)、二つ目の「統治者が神の代理人」とされるケースだと考えるのがまぁ妥当だろう。とするならば、「オタク=コミュニティ」における統治者とは誰なのか?

 

しかしながら、そもそも神権政治自体、必ずしも神を必要としないものであることは忘れてはならない。神の代理者として政治を行っている、という体が必要なのであって実際にそうかどうかはあまり関係がない(なぜなら、政治をするうえで求心力として神を利用している面も否めないからである)。これはアイドルに対してわたしたちが好き勝手解釈して都合よく信仰、支配されていることの説明にもなる。そこに真実であるかどうか、実在するかどうかは関係ないとも言えるという点においては特にそうである。

 

ところでよく「オタク=コミュニティ」の中で声のでかいオタク、大手垢、学級委員的オタクなどが揶揄(かどうかは個人の判断な気もしますが、ここでは揶揄とします)されているが、その力というのはどこに根拠を置いているのだろうか?

個人的な考えだけで言うと、この場合の”力”はガッツ(=ある種、金の力)であったりレポ流し(=情報という力)、オモロツイート(=エンターテインメント性としての求心力)あたりなのかなと思うのだが、逆に顔だけで囲われているジャニオタがいたら教えてほしい。

 

ここで少し話が移るのだが、女性アイドルの現場に行くと「女オタオタ」というものがいたりする。「女オタ」はその名の通り女性のオタクのことをさすのだが、「女オタオタ」は「女オタ」のオタクをさすわけである。これは男性向け(絶対的にそういうわけではないし、そういう前提で見るのがいけないことはわかっていますがここではそう仮定します)コンテンツに存在する女性ということになり、比率的に希少価値が高まることもあるとは思うのだが、これ男女が逆だと発生しないのではないか、と思うのである。もし仮に、バリクソイケメンのジャニオタがいたとして、そこに囲いオタクが大量発生するか?

 

ここに対していくつか仮説を立てたので説明していく。

まず一つ目の仮説は、「性的コンテンツとして消費するか否かの差」である。

もちろん一概にそう決めつけることは良くないし、これは男性を非難するものでも女性を擁護するものでもないのだが、客観的に見ても男性向けコンテンツのほうが直接的に性的消費される機会は多い、としたうえでの仮説である。例えば写真集を出すとなった場合、水着や下着、時にヌードでさえも、それはアイドルであっても撮影され出版されることが多いが女性向けコンテンツ、特にジャニーズではその流れはあまり見られない(アンアンはちょっと特殊過ぎるので除きます。一応写真集はある程度内部仕事、雑誌は完全な外部仕事としてわたしは理解しています)。それどころか、ジャニーズが少しでも性的な発言(これは好みの服装であったり、フェチなどの軽度なものも含まれる)をすると激怒するオタクも多いように見受けられる。

これは宗教にもよるのだが、信仰対象への性的欲求は禁じられているのが普通である(まぁそれは当たり前なんですが。神聖なものを汚す行為はいつでもどこでも基本的にタブー視されているものではあるので)。そういった点を踏まえたうえでこの仮説をもとに考えるならば「ジャニーズのことをオタクたちは本当に神聖視しているので(=統治者は神であるアイドル自身)、同時にオタク個人に対して信仰心や囲いが発生することはない」ということになる。

 

二つ目の仮説は、「アイドルとオタク間の距離間の差」である。

女性アイドルというのは、だいたい会えるものと相場が決まっている(ハロプロやスタダはその限りではない……のだと思いますが、少なくとも秋元系や地下では簡単に会うことが出来るでしょう)。

距離が近い、ということ、会えるということはすなわち”言葉”が発生する。会話が発生するのだ。リアルでの握手会(この書き方に昨今のコロナ情勢を感じて寂しい)においては、皮膚と皮膚の接触すら発生する。

これはジャニーズとのおおきな違いと言えるだろう。ジャニーズは基本祈り(ファンレターは言葉を伝える手段だとは思いますが、必ず返ってくるわけではないですし祈りに近いとわたしは考えています)しか出来ないからである。画面越し、コンサート越しに一方的に受け取るのと直接触れて言葉を交わせて、というのはおおきな差だ。

ということは、「一定の距離感が対象への感情を増幅させ、さらに”神性”を発生させる」と考えても良いのではないだろうか。

 

だがしかしながら、日本において神の定義というのは曖昧なもので「八百万の神々」という言葉があるように万物に神が宿っているとも考えている一方、初詣・墓参り・クリスマスなど(以上の三つはそれぞれ神道・仏教・キリスト教を由来としている行事である)宗教に対しての理解があるというか、まったく理解していないというか、そこまで考えていないという状況なのである。国の大多数が信仰している宗教(国教)があるわけでもないというのもおおきなポイントの一つである。

アイドル文化は主に日本で見られるものだが、偶像崇拝が禁じられている宗教が国教でない点は発生要因の一つと言ってもいいだろう。日本では政治が宗教からわりと離れており、天皇制は象徴天皇であり一応神の子孫ともされているが明確に神とされているわけではない。偶像宗教も禁止ではないため、誉め言葉として「それ神やん」「神ワザ」などと使用することも多い。もちろんそれは英語圏における「Oh my god」などと同じと言えば同じなのかもしれないが、日本語における神という言葉は非常に軽く宗教的な意味合いを含まないと考えていいと思われる。

 

 

という以上の点から考えるに、日本においては神という存在や神権政治も曖昧なものでしかないうえこれらはすべて仮説でしかないが、「アイドルとオタクの関係性におけるアイドルの神性は、アイドルとオタクの距離感やコミュニケーションの有無に大きく左右される」ということはわかった(ような気がする)。

おそらくジャニオタと女性アイドルオタの神聖視って同じように人間を神聖視するという行為は同じでも種類が違うような気がする。というかわたしはそう思っている。

というか、純粋にアイドルとオタクについての自己満研究楽しすぎる。

 

 

もうこれ以上広げてもまとまりそうにないので結論を述べますが、ここまでの仮説などを読んで意見がある人とか、男オタオタ経験のある人とか、顔がいいだけで人気のジャニオタ知ってるよとか、そういう話が聞きたいので考察送ってください!待ってま~す☆彡

 

おしMY BABY